【本当は危ない現代短歌⑥】歌人という肩書の脆さは、日本社会と伝統文化の脆さに直結している

2026年1月31日

 





短歌はしれっと悪意をまき散らす



短歌ってお人よしだなあって、思うんス。もっと、相手を選べやって思ってきた。


だってさ、世の中って肩書が好きじゃん。短歌はその「歌人」っていう肩書を誰にでもすぐくれちゃう。


利用されやすい媒体っていうか、こいつが一番「ちょろい」気がしていて、だから嫌いなんです。


そのくせ伝統文化という極めて魅力的で甘美な香りを放つ正装を纏って、袖の隙間からチラリとこちらを盗み見してくる。


ひとたび、その視線に囚われたなら、この誘惑に抗える者なんていやしない。


気づいた時には袖の奥へと手を突っ込んでいて、やわらかなものを掴もうと、必死にもがくことになる。


腹の底に秘めた悪意でさえも、美しい景色と重ねて詠えば、宝箱に隠されていた宝石のように錯覚させてしまう。そうやって濁った心を「芸術」にすり替えてくれるんだから、やっぱり短歌はお人よしだ。


誰にもわからないように世界を悪意で浸食していく短歌というものがある。悪人ならば、これを利用しない手はない。

和歌と短歌の関係を正しく理解するための基礎知識



短歌が社会に及ぼす危険性を語るには、まず短歌というものがいかなるものかを再確認する必要がありました。


そこで改めて調べ直してみると、短歌とは和歌の系譜を継ぐものというよりは、和歌が現代まで生き延びた形態を指す名称であるということです。


これを論証するためには形式・歴史・機能・言語意識の四点から証明できます。



一つ目が形式的連続性と呼ばれるもので、これは短歌が和歌の基本形式(定型)をそのまま継承しているということです。


次に歴史的連続性となります。明治以降に和歌は短歌と名称を変えこそしましたが、これは和歌を遠い過去の遺物として否定したものではなく、短歌とは和歌の更新系として近代文学に再編成する過程でできた名称であるということです。


さらに詠作原理の継承と呼ばれるものがあり、これは嚙み砕いて言えば世界の捉え方というもので、和歌も短歌も日常の一瞬や一場面を切り取り定型に定着させる思考様式は共通しているという意味になります。


最後に社会的機能の継承です。和歌であれば宮廷儀礼などがあり、短歌でも宮中歌会始めがあるように時代は違えど、どちらも社会制度との結びつきが強い文芸であると言うことです。


ほかにも響きや調べ音韻構造に依拠した日本語観が同一であるなど、和歌と短歌の共通性を示す根拠はあります。


さて、この基本的な根拠を踏まえた上で短歌が社会に及ぼす危険性を書いていきます。


文化人という肩書がほしい人に、なぜ短歌は最適の文芸とされるのか


まず、現代短歌はその他の文芸に比べて詩形は短く即興性があるということです。付け加えるなら世界最短の文芸と言われる俳句でさえ時間をかけて季語を覚える必要がありますが、短歌にはそれすらありません。


それに、短歌は情緒的であり感性の産物として読者から共感を得ることを一つの価値としていて、そういう意味ではお茶の間を相手にするメディアとの相性が良く、互いの利害が重なり合うことでメディアの文化人枠におさまりやすく、メディアを通じて文化人化していく傾向にある。


極めつけは歴史的権威の借用と言えるもので、短歌は言わずと知れた千年以上の伝統を持つ古典文学であること、とどめは歌会始めがあるように皇室との結びつきも連想させることで、それにたずさわる人は何やら偉い人というイメージから、周縁の意見はほとんど無力化されたまま、慎重派が無条件降伏ともいえる状況を強いられている中で文化人として扱われるようになる。


歌人という肩書を簡単に与えてはいけない理由


上述した通り短歌とは和歌と呼ばれていた時代から数えて千年以上の歴史を持つ文芸であり、「歌人」という呼称は先人たちの言語意識や美意識を引き継ぎ、その技量や継続性によって歌詠みとして一定の評価や支持を受けた者が、それに伴う社会的責任を負うことでゆるされてきたものであり、ただ漫然と短歌を詠んでいるだけの者が自由に自称できる称号ではありません。

次に歌人としての社会的責任があります。残念ながら短歌は教育(教科書、短歌教室等)、マスメディア(新聞、テレビ等)での露出の機会が多い文芸でもあります。


これは何を意味するのか、それは自分たちの存在あるいは自作短歌が社会的言説として流布されることで影響力を持つということです。


このようなきっかけをつくるものとして「歌人」という肩書は大きく作用します。それを知ってか、知らずか承認欲求が人並み強い凡愚などは、左派系メディア等に目をつけられると、ものの見事に勘違いしては、飢えと渇きにもがく狂犬がごとく迷い犬を感染させていき、左派の飼い犬として伝統破壊に邁進していきます。


だからこそ、無自覚に名乗るべきものではないし、名乗らせるものでもないのです。


さらに、肩書の投げ売りがもたらす弊害というものがあります。ネット上を見渡せば歌集の平均購買者数をはるかに凌ぐ「歌人」が存在しているのではと笑ってしまいます。


たとえば、その日のうちに読み捨てられるようなSNS歌人でさえ一時的に注目を浴びることで、急速にフォロワーが伸びることがあり、そのたった一度の成功体験を理由に「歌人」という肩書を名乗ることが一般化あるいは常態化すれば、作歌力の安定性や継続性を無視した評価基準が歌壇を置いてきぼりにして、既成事実化してしまう危険性をはらんでいます。


このようなことになれば、批判性や評価が曖昧になることは容易に想定できることであり、読み物としての面白さのみが評価対象となれば、文化の継承という歴史的連続性が遮断される事態に陥いるのは明白で、その結果として「歌人」は消費社会の称号となりはて、短歌自体が陳腐化していく現象がおきる。(すでにそのような兆候は表れている)


歌人が増えると歌壇は良くなるのか


短歌を詠む(作る)ことと、歌人を名乗ることは本来べつの話であり、歌人とは歌作を始めた時点から自称するものではなく、基本的には創作をつづけていった結果として周縁から呼ばれる呼称である。


誤解してほしくないのは素人は歌作を止めろと言っているわけではなく、新参者を排除する行為として歌人の定義を厳格化したいわけではないということです。


歌人を名乗らなくても短歌は作れるし、ネットを介せば、その作品を公に公開し、その評価を知ることもできるのだ。


さて、近頃では一時よりも「多様性の時代」という声は小さくなったような気もするが、ことリベラル(パ)の巣窟と化している歌壇および短歌界隈を意識して語る時、この言葉を無視することはできない。


多様性の時代に肩書に重みを持たせる発想自体が時代遅れと感じるのを当然の反応として、それに応えるなら、千年以上社会と結びついてきた表現形式である短歌にたずさわる人物を指す呼称「歌人」を軽く扱うことは多様性の尊重ではなく、歴史との断絶を引き起こしかねない行為であり、更新するべきは価値観であって、伝統を無効化してよいわけがない。


過去に縛られるなという声を聴く人もいるでしょう。しかし、「歌人」という呼称は重い物なのです。


むしろ、実力に見合わない呼称を軽はずみに利用している人が、世間でどのような人間と受け取られるか、想像力を働かせた方が身のためだと思います。


わたしはそれを、真に知性がある人間がすることだとは思わない。世間知らずの中坊ならまだしも、一人前の社会人と見られる年齢層の方は性別問わず気をつけた方がいいと感じる。


ところで、実績?実績ってなんですか。ちょくちょく発言してきたと思うけど、現役をつづける以上は、定期的にその立場を保証する作品(結果)を提供しなければ、その肩書に意味は持たせられないと考えている。


なぜなら外部からの評価というものは常に流動的なものだからだ。そして何より短歌は、他の文芸ジャンルに比較して良くも悪くも即興性が効く文芸でもある。


ところが現実はどうだろう。ネットでは「歌人」という肩書を公にする人は多くいても、その作品は結社内や短歌誌といった、都合よく権威が働く限られた空間で共有されるだけで、スポンサーがいないネット内ではほぼ提供されることがない。


だから、売れねえんだからさ、公において「歌人」を自称するなら過去の実績ではなく、立場を保証するものとして自慢の近詠を出せやと思うんですよ。以前の記事にも書いているけど、数を求めているわけではない。月に一首でもいいって、それができない人、つまりはネットで歌人を自称する現代歌人様には、その総数に比べて信頼に足る人物が少なすぎるのだ。


ここまで書いてきて、「間口を狭めれば短歌人口が減少し、短歌という文芸は衰退する」という意見がでることも考えられるけど、文化が衰退するのは敷居が高いからではなく、中身の質が落ちた時というのは、どの世界でも共通することではないだろうか。


「歌人」という肩書が社会に及ぼす危険性


過去記事で現代歌壇が権威主義に支配されているとは何度か言ってきた。そうでなければ、ここまで「歌人」という肩書に拘らなくてもいいような気はする。


「肩書」それは本来、その人の立場や役割を示すものですが、そもそも、その立場や役割自体が機能不全に陥り、実利を伴わない人が相当数存在する現状では、肩書の意味はすっかり変質してしまっている。


「歌人」と呼ばれる存在についても、それは例外ではない。現代短歌は過去二十年以上に渡り、読む者が詠む者を感情ではなく知性で評価することによって、その存在価値を保証するという、いささか倒錯した構図に置かれてきた。その過程で短歌そのものの持つ芸術性よりも、如何に選者の知性を刺激し得るかという点に比重が移り、評価の重心は作品から評価者へズレていった。結果として、読む側の者には実力と肩書を混同する錯覚が生じ、読む側と詠む側の双方に、権威への無批判な盲従と、評価行為に伴う自己責任の放棄が共有されていく。こうして、能力や表現の質とは切り離された序列化が進行し、その関係性は次第に固定化されやすくなる。※(「倒錯」とか「盲従」とか普段使わない言葉の配置で苦労して、この一文を完成させるのに二日かかったんやで!もう、あほやで!)


最後に、歌会始め選者の最有力候補として、近い将来その名があがるであろう吉川宏志さんの作品を一首だけ拝借させていただこう。(権威に拒絶反応をおこす性質ではなさそうだけど、「世間の目」次第では、フィクサーとして暗躍する可能性の方が高いかな。)


天皇が原発をやめよと言い給う日を思いおり思いて恥じぬ(私が、この作品を目にして最初に感じた感覚は、彼の内面に潜む支配的な幼さだった。と同時に、これこそが彼の作品群の核になるものではないのかと夢想した。幼さは時に残酷である。


現代歌壇には歌人を名乗る輩は数多く存在するが、その総体をもってしても吉川宏志さんの前進を阻める力になるとは考え難い。一方で、社会活動家としての彼の側面と、彼につながる系譜を見る時、あなたは何を思うだろうか?


わたしは思う。吉川宏志さんの存在は彼自身というよりも、むしろ彼を取り巻くすべての歌人の社会的存在意義と、歌人としての社会的責任を根底から問い直すものであると。


※勉強してきたじょー。


「・・・である」だってさ。久しぶりすぎて固い文章のような気もするけど、慣れれば構成とか、文章もだけど、こっちの方が断然書きやすいわ。ただ、三十年前の短歌総合誌や結社誌に掲載されていた歌評のような定型文(熟語爆弾投下)には落としたくないな。そういう意味では、天秤のバランスをとるのが難しい。何よりオチがねえのがらしくねえ。


吉川宏志さん、一首拝借したけど、ゆるしてね。そして、ありがとう。

QooQ