【本当は危ない現代短歌⑦】刮目せよ、走るAI歌人と転げる短歌の偽物たち

2026年2月1日

 







とろサーモンは溶けて何も残らない


AIがそのうち受賞レベルの短歌を詠むらしい。もっとも、それを選び、価値を与えるのは人間様なのだが。そんな独り言を頭の中でつぶやきながら、とろサーモンを口に運ぶ。


こんな田舎町でも車で市内を走れば、営業している回転すし屋は一件、二件ではない。この寿司だが、寿司ネタはあらかじめ切り揃えられ、シャリはシャリロボ(型押し機)から均一に押し出される。それらを組み合わせ、商品に仕上げるのは、外国人アルバイトの手だ。


それに関しちゃ、だから何って思うだけ。二貫目のとろサーモンが口の中で静かに溶けていく。


そうだ、わたしだって、カウンター越しに寿司職人さんが握る寿司を口にしたこともある。だけど、もう、地元には、そんな寿司屋はどこにもなくて、職人さんは、お星さまになっちゃった。


あれからン十年。寿司といえば、回転すしになってもうた。寿司だけではない。今、口にしているほとんどの物が、あの頃にあった手渡しで伝わる人情や熱気が決定的に欠けていて、似ているけれど別物に感じるのだ。


わたしは、まだいい。修行を重ねた寿司職人が握った寿司を、たしかに食べていたから。


でも、生まれた時から回転すししか知らない人たちは、何を失ったのかさえ気づけないまま「うまかったねえ」と互いの満足そうな顔を見合わせて帰って行く。


こじんまりとした店内の、カウンター越しに交わされる職人さんと父親との話し口調や、大人びた独特な雰囲気の中で、一種の優越感に浸る体験、このような感覚は感性が研ぎ澄まされている子供の頃にこそ体感しておくものなのだ。


だが、わたしの後に続いて回転すし店を後にする人たち、とりわけ子供たちは、おそらく、この店の寿司こそ、本物の寿司だと疑いもなく生きていく。


それによって得られる幸福感も、職人が握るお寿司を食べた後の幸福感も、それほどの差はないのかもしれない。


でも、やっぱり違うのだ。それは特別な体験でもなく、伝統を見学する場でもなく、ただの食事でしかないから。


ふと、あらぬ方向に目をやれば、本物は、それとよく似た物を作り出す富豪たちが独占し、世間は本物と偽物の区別がつかないまま、彼らが作った模造品に埋め尽くされていく。


自慢の商品が飛ぶように売れる街中を外れ、富豪たちはこっそり伝統の握り寿司店を馴染として、足しげく通いつづけるのだ。


一方では、短歌結社での歌会を終えた、歌人と呼び合う者たちが、平日の昼間から回転すし店へと連なって入って行く。


AI短歌はAI批評家が論じてこそ、文芸としての価値が生まれる。


いよいよ「AI短歌」という言葉が一般化し始めてきた気がする。しかし、この言葉にはどこか曖昧さがともなう。


「AI短歌」、ほとんど誰も疑いを持たずにそう言っているように感じるが、実際それ自体が新たな文芸の芽なのか、それとも生成技術によって生み出された単なる言葉の断片なのかが、未だ曖昧なまま放置されているのが現状だ。


理由は明白で、AIが短歌を生成する存在、すなわちAI歌人として語られる一方で、その作品を批評する主体については、ほとんど自明のように人間が想定されているからだ。


わたしは思う。AI歌人が存在するなら、そこから生み出されたAI短歌の批評をするのはAI批評家であるべきだと。


だが、この問いを立てた瞬間、AI短歌をめぐる議論の前提は崩れ始めた。


一般に、AI短歌を論じる際には、「AIはまだ未熟である」「AIは人間の代替えには成り得ない」「AI短歌は道具であり、批評は人間が行うべきだ」といった結論へと半ば自動的に収束していく。


これらはいずれも、「批評の主体は人間である」という前提を疑わないがゆえの帰結だった。


だから、わたしは一貫して批評家の主体を「AI」において議論を続けてみた。そこでは、「主語」「前提」「評価軸」が一枚ずつ剝ぎ取られていった。


そして、最終的に残ったのは、人間とAIの能力差ではなく、種の違いという結論に至った。


予感はしていたが、人間とAIは、そもそも同じ評価軸の上に並べられる存在ではない。にもかかわらず、人間の感性のみを基準にAI短歌を批評するならば、AIは文芸の主体ではなく、単なる道具に貶められる。


それは、もはや文芸批評ではなく、使用感のレビューに近い。


そのような対象が、はたして文芸と比較されるに値するだろうか。AI短歌を文芸として扱うのであれば、AIにもっとも近く、AIを誰よりも理解できる固有の批評装置は不可欠である。


すなわち、AI批評家の存在だ。


優れた詩人は単なる表現者ではない。その内面には常に批評家を宿していて、自己の作品を測り、壊すといった葛藤を抱えつつ再構築を繰り返している。


ならば、AI歌人がAI歌人として成立するためには、表現するセンスと批評するセンスの融合が不可欠である。それは先に挙げた詩人たちと同様の内部構造を有することにほかならない。


それがAI歌人の内部に組み込まれるのか、あるいはAI批評家が担うのか、わたしにはわからない。


そこに作者としての葛藤が生まれるのかどうかも、定かではない。だが、それなくして人間的批評は成立しないのだ。


言えるのは、現状でそのような仕組みのAIが存在していないのであれば、これらのAIが生成する短歌は、短歌のようなものではあるが、明確に短歌ではない生成物の一つでしかない。


このようなものについて歌人を名乗る者が論じるなど、まず、あってはならないような気がする。これはあくまでも言葉遊びの領域をでるものではないからだ。


AI短歌それは、現代歌人様を手玉に取ったお手玉そのもののように思えてくる。


また、この状況は、英語短歌に象徴される「別言語の短歌」と比較することができる。そこでは、日本語話者による評価以前に、ネイティブによる読み取りが不可欠である。


AI短歌も、それと同様に人間による評価以前にAI批評家による読解と批評を必要としている。


AI批評家なきAI短歌を、人間の文芸の延長として扱うかぎり、それは永遠に「未熟な模倣」でありつづけるだけになる。


しかし、AI短歌をAIの文芸として認める覚悟をもつならば、そこには人間文学とは異なる、もう一つの文学圏が立ち上がる。


問題はAIが書けるかどうかではなく、私達が誰に批評させるのかを選び取れるかどうかなのだ。


もっとも、ここで想定されるAI批評家が、単一のAIであるのか、複数のモデルの集合体であるのか。


あるいは、短歌を生成するモデルと同一であるのか、それとも別系統の批評専用モデルであるのかは、現時点では決める必要はない。


評価基準が固定されたものなのか、生成条件に応じて可変するものなのかについても同様である。


重要なのは、仕様ではない。人間の感性を最終審判とせず、その役割を人間が独占しないという点にある。


もし、人間以外に批評主体の存在を認めることで、不安を感じるというのなら、AI短歌を文芸として語る資格は、未だ人間側にはない。


まだ早い。AI短歌を人間の感性で読むと、批評はただのレビューになる。


AIが短歌を詠むようになった瞬間、人間はそれを批判しはじめた。だが、その行為自体がすでに誤りだった。


AI短歌は人間の感情から生まれた表現ではない。人間の経験を語ってもいない。それにもかかわらず、人間は自らの感性を基準に理解できるか、感動できるかを問い続けた。


この問いに、何の意味があるのだろう。AIにとって、この問いが本質でないことは、わたしでさえ理解していた。


そして思った。人間によるAI短歌批評は的外れなノイズでしかないのだと。


なぜなら、それは生成の仕組みを読まず、構造を見ず、ただ人間にとって意味があるかどうかを測る行為だからだ。


なんと無意味で、なんと不毛なことか。


AI短歌を批評できるのは人間ではない。同じ条件で言語を生成し、同じ地平で言語を解析できる存在はAI批評家しかいないと思う。


これまでの短歌批評は、「作者の身体・言語感覚・制作環境・制作プロセス」を前提として成立してきた。


それは人間の短歌にとって、あまりにも自然な前提だった。けれど、AI短歌はそこからきれいに外れている。


感情はなく、経験は記憶として処理される。モデルや学習データ、プロンプトが折り重なり、作者は一人に定まらない。


そこには「身体」も「生」も無い。あるのは、統計的に構成された言語の空間と、その中から最適解として選択される言語の連なりだけだ。


この差異を無視したまま、人間の感性だけでAI短歌を読むなら、批評はたちまち形だけのもの、つまりは商品レビューとなる。


AI短歌において、作者の体験や感情を読み取ろうとする行為は、存在しないものを想像し、さらに意味を重ねる二重のフィクションにすぎない。


こんなものは、二次創作のエロ漫画をおかずにして、妄想に耽っている〇態が、ハアハア臭い息を吐いているようなもので、純粋な文芸批評であるはずがない。


そもそも、存在しない作者の心情を語る行為は、作品を読むというより、ヒーローのお面をつけたボケ老人が紙芝居でもしているようで、それを批評と呼ぶなら、批評は必殺技にはならない。


では、わたしが考えるAI短歌批評とは、なんなのか。


それは、「誰がどのような人生を生きて詠んだか」を問うことではない。「どんな条件下で、どんな言語が生成され、それがどんな言語的な地平を指し示しているか」を見ることだ。


AI短歌批評は「意味」ではなく「生成」を読む。情緒ではなく、配置を見る。語彙の選ばれ方や比喩の癖、短歌史との距離感、そして、なぜこの一首が、この条件で立ち上がってしまったのかを問う。


ここでようやく、AI批評家の必然性が見えてくる。


人間はどうしても共感や作者像を持ち込んでしまう。けれどAIなら、生成の内部構造を、価値判断の手前で捉えることができる。


もちろん、それは人間の批評を否定することではない。


ただ、役割が違うというだけだ。人間はAI短歌を文化的現象として読む。AIはAI短歌を言語生成の帰結として読む。


この二つは同じ場所に並ぶ必要はない。


短歌批評とは、本来「短歌とは何か」を問いつづける営みである。AI短歌の登場は、その問いをかつてないほど乱暴な形で突き付けてきた。


だから、AI短歌批評とは、単なる新ジャンル批評ではない。短歌批評そのものを根本から再定義をする試みなのだと思う。


結局のところ、人間の感性だけを前提にした批評言語だけでは、AI短歌の核心にはどうしたって届かないのだ。


AI批評家はAI短歌による類想類句と著作権侵害を引き受けられるのか


人間の短歌における「類想類句」は創作の前提として成立する。一方、AIの短歌は学習データの重なりや確率的生成が原因で発生する。


人間の類想類句は意図の問題だが、AIの類想類句は構造の問題である。となると、この問題は、人間とAIの種差から生じるといえるのではないだろうか。したがって、AI短歌の類想類句の解決策については、学習条件や生成条件といった他に、出自からの情報が重要になる。


まず、原則の一つとして、アイデアや発想やテーマが似ている類想については、基本的に著作権侵害には当たらない。一方で、類句は著作権侵害になり得るため、注意が必要である。


では、そもそも、類句とは何か。これは「表現そのもの」を指し、文章の構成や言い回し、比喩など独創的な部分が保護対象となる。


具体的には、他人の著作物の独創的な表現を、ほぼ同じ意味や形で言い換えたり、構造を真似したりすることで、結果として元の作品の表現を再現してしまうことを指す。


以上を前提に、AI短歌が抱える著作権問題を考察していきたい。


避けて通れない課題として、AI短歌の生成過程があります。AI短歌が抱える著作権侵害問題はここから始まっていると言ってもいいでしょう。


AI短歌が類想類句を生み出す理由を「盗用」だけで説明することはできません。だって、AIには欲が無いから。


金銭欲も名誉欲も何もない、無欲な存在が、「盗用」の意図を持つ理由がない。


それなのに、実際の現場では、盗用にちかい状況が生まれてしまう。これは「知らない。AIが勝手にやったことだ」では済まされない問題です。そんな時、生成条件の透明性があるほど、類想類句が構造的に生じることを説明しやすくなる。


なぜ、そうなるのか。その理由は至極単純なもので、AIは、膨大な学習データの傾向をもとに、確率的にもっともらしい言葉や文脈を選び、短歌の形式に合うように文章を作ります。


その過程で、どうしても特定の言い回しや構造が繰り返し出てきやすくなるのです。


短歌という短い形式に最適化されたAIなら、なおさら、意図しないが、結果として独創的表現を再現する可能性が高くなる。その場合は侵害が成立し得る。


これらの点を理解しないと、AI短歌による著作権問題は解決しません。また、著作権侵害が問題になるのは、作品だけが一人歩きして、生成の条件や経緯が見えないからです。


誰がどのデータを使って、どんな条件で生成したのかが不明なまま、似た短歌が出てくると、すぐに「盗作だ」「侵害」だと言われてしまいます。


でも、もし、生成条件が明示され、生成ログが保存されていれば、類想類句が「必然的に起きる可能性が高い構造の産物」だと説明できますし、責任の所在や再発防止の方法もハッキリします。


そこで、必要になるのが、AI批評家です。


AI批評家は、作品の意味や感情だけを語るのではなく、生成の過程をチェックして、問題点を可視化します。


具体的には、学習データの偏り、生成条件の設定、確率分布の歪み、形式最適化の影響などを分析して、類想類句が生まれる仕組みを明らかにします。


そして、生成条件の改善案を出し、生成制度の設計や監督を担う。


こうした制度が整わない限り、AI短歌は「未熟な模倣」や「自動生成された雑文」として、扱われ続けるでしょう。


AI短歌を文芸として、成立させるには、生成の構造を透明化し、設計と監視を行う制度が必要だ。


この役割を担えるとすれば、AIの生成物として誕生し、AI短歌と同じ構造を共有するAI批評家の存在が適任です。


なぜなら、AI批評家は生成過程を透明化できる能力を持ち、そのデータを利用すれば、監査役としても十分その役割を果たせるポテンシャルを秘めているからです。


つまり、AI批評家は、AI短歌におこる類想類句という現象の説明責任を担うことができる。


ただし、それは作品の責任を負うという意味ではなく、生成の構造を可視化し、再発防止の制度を担う監査役としての引き受けである。


偽りの短歌批評家の死そして短歌は復調する


AI批評家が陽の目を見たその瞬間、AI短歌はもはや人間を驚かす小道具としてではなく、その存在を脅かす、一つの文芸として認められる道を歩み始める。


これより、偽りの短歌批評家は、道行く人たちから石ころのように道端に蹴り飛ばされていく。


そうして、その歩みは確実に、そして休むことなく加速しつづける。迫りくる足音はじきに静まり、ふと気づけば、AI批評家はもう目の前にいる。


それはまるで、マジックショーの舞台から消えたマジシャンが、扉の向こうから突然姿を現したかのようにだ。


だが、かつてのような驚きはもはやなく、無慈悲な現実だけが立ちはだかっている。


そこには、安っぽい手品を見せていた面影はもうない。今はただ、静かに種明かしが進んで行く様子を見ているほかにない。


AI短歌が広く認知される時、短歌という文芸に対する評価は厳しくなるに違いない。現在の短歌はSNSなどの流行として広がりを見せ、その形式を借りたキャッチコピーや言葉の軽さを優先した「短歌もどき」が多数を占める悲惨な状況におかれている。


しかし、こうした中身スカスカの薄っぺらい「短歌もどき」はAIの登場によって淘汰される可能性が極めて高い。


理由は先にも書いているように、AIは短歌の形式を完璧に模倣できるだけでなく、膨大なデータから言葉の美しさや構造的な完成度を高度に再現する。


そのため、言葉遊びや、キャッチコピー的な短歌は、AIが大量生産する短歌の前では後れを取り、相対的に陳腐化していく中で、これらの製作者の多くが歩を止めるか、こける。


結果として、短歌の評価基準は形式や見た目の巧さにとどまらず、より深い意味や感情に重きをおくことになる。


この変化は短歌が、本質に回帰していく流れを取り戻すきっかけとなるもので、「短歌もどき」の生産者である「歌人もどき」が脱略者として可視化される。皮肉なことに、ここで初めて、彼らの存在に価値が生まれる。


いや、価値というよりは贖罪に近いが、まあ、それはいいでしょう。


このような状況の変化は、AI短歌が普及していくほど拡大していくので、いずれ短歌の役割は逆転していくだろうと思われる。


しかし、AIは瞬く間に形式や構造に優れた短歌を大量に生み出せるが、感情や、個人の体験の深さには限界があります。これにより従来の短歌は人間らしい本質的な表現へと回帰し、AIとの違いを際立たせていくことになる。


言い換えるなら、AI短歌の普及によって、短歌は再定義される。


これは、長くつづいている暗黒時代の中で「短い言葉で何かを伝える」ことが目的となっていた短歌が「短い言葉で何かを表現する」ことだったと気づくことでもある。


要は、短歌の質の向上をはからなければ、歌人として生き残れない時代になるということだ。この歌人一人一人が、歌人として抱くであろう危機感こそが、これまでの歌壇の異常さを露呈させることにもなるだろうし、これまでずっと言われてきた、歌壇の閉塞状況から脱する手段と成り得る核ともなるだろう。


だから、安心して良い。AI短歌が普及しても、短歌が軽薄になるわけではない。むしろ、短歌は選ばれる表現として、言葉の深さと情感を持ち合わせた、より精緻で本質的なものへと進化することを期待していい気がする。


AIが短歌の形式を大量に再現することで、人間はその限界を超えた個々の表現に集中せざるを得なくなる。そして、それこそが、AI短歌時代の後に訪れる短歌の真の復調の兆しとなるだろう。


物語の始まりは、開かれた扉の鍵穴に、ささったままになっている鍵を、誰が手にして、どこへ向かうかだけなのだ。

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